今日、散歩をしていた時、ふと気づいたことがある。
僕は最近、英語版のブログでデータ科学系の記事を連載しているが、パソコンを使った作業を長くやるようになったから気づいたことだと思う。
倫理学者の間では有名な話だが、古代ギリシャの哲学者プラトンは、彼の著作『ゴルギアス』の中で、自身の師であったソクラテスに「何が正しいかについて知識を持っている者は、正しく行為するはずであり、正しく行為できない者は、未だ何が正しいかについての知識を持っているとはいえない」という趣旨の発言をさせている。
哲人ソクラテスは、毒盃を仰ぐという「正しいこと」を実行した
僕自身、倫理学の研究に携わる経験があり、このソクラテスの発言の真意を解釈しようと一生懸命に考えた。あのソクラテスが言ったんだから、深遠な真理を表しているに違いないと思っていた訳だが、今改めて考えてみれば、この発言はやっぱりおかしいと思う。彼のように毒杯を仰がないからといって「順法」の正しさがわかっていないとは言えないし、「順法」の正しさがわかっているからといって、毒杯を仰げるとも限らないだろう。
ギリシャの原語に遡り、琉球大学の研究者がこの問題についてある論考を出しているが、人間の知識を「理論知」と「実践知」に分け、「正しいことが何か知っているが、正しく行為できない人」について「理論知は持っているが実践知を欠いている」と考えればよいと述べている。名案だと思う。
ただ、僕はこれよりも優れた案が、プラトンの弟子であったアリストテレスによって『ニコマコス倫理学』によって既に提示されていると思う。数年前に『ニコマコス倫理学』を読んだときに良い本だと思ったが、今この記事を見て、改めてそう思った。アリストテレスは、知識を得るということと、得た知識を働かせることとを区別することで、この問題を解決している。
アリストテレスが正しいことは、コンピューターを見ればよくわかる。人間がどう行為すべきかに関する知識を得ることは、アプリをパソコンにインストールすることに喩えられる(人間が統計学を学ぶことと、パソコンに統計ソフトをインストールすることのように)。そしてインストールされたアプリを働かせるためにまずそれを起動しなければならないように、人間が得た知識に基づいて行為するためには、その知識を起動させる必要があるといえるだろう。
そんな、人間の知識を起動されるシステムこそが「儀式」(ritual)と呼ばれるものではないだろうか。儀式の一例として、まず「祈り」を挙げることができる。一般的に祈りとは、まあ自分についてもそうであるが、他人あるいは「生きとし生けるもの」について、その幸福を念願したり、その存在に感謝したりする行為だと思う。そんな祈りを、その内容を実現する超自然的な力に対して捧げる時、人は「利他的に生きる必要がある」という知識を起動させているのだろう(形だけではなく真心で祈るならば)。祈りは、道徳アプリのスターターとして機能する。
もう一つの例が「瞑想」(meditation)だろう。楽な姿勢で床やマットの上に座り、目は閉じるか薄めにして、ただ自分の心身の状態を観察するヴィパッサナ瞑想や、特定の対象について精神を統一させるサマタ瞑想などは仏教文化圏に伝承されてきた手法であり、現在では世界中に普及している。僕自身も20代前半のころに試したが、心が落ち着きを得られるという即時的な効果と共に、自分の中に生じる様々な思考や想念について、重要なものと重要でないものを見分け、やがて重要でないものを捨てて重要であるものに専念できるようになるという結果に繋がったと思う。パソコンでいえば、Disk Cleanupという、ハードディスクに保存されているデータの中で不要なものを削除する機能に当てはまるだろうか。メモリにゆとりが生まれ、あらゆる作業のパフォーマンスが向上するという効能も共通している。
「呪文」(chanting)についても同様のことがいえるかも知れない。「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」などを、「阿弥陀仏とは何か」や「法華経とは何か」について一応知っている者が真剣に唱える時、その人の心に怒りや憎しみが芽生えていたとしても、それらを除き落ち着きを取り戻すことができるはずだ。これはパソコンのアンチウィルスソフトのようなものではないだろうか。人間の心身にとって害を与えかねない、ネガティブな情報という「ウィルス」が精神に入り込んできた時、それを除去する力を呪文は持っているからである。
このように、人間は様々な儀式によって、「正しいこと」について持っている自分の知識を働かせることができる。特に瞑想は世俗化が進んだ現代でも人気があり、忙しく活躍している人々から、一日を朝の瞑想から始める、という話を聞くことは珍しくない。また今世紀に入ってからは、認知科学において祈りや瞑想の効果を実証する研究も増えてきている。
だから、「儀式なんていうのは迷信的で、非科学的で時代遅れだ」という考え方が、認知科学的見地からすればむしろ時代遅れなのであって、知識を学ぶことのみに専念する教育は「知識に関する(メタ)知識」を欠いていると言わなければならない。「こんな子に育てた覚えわない」とか「自分はこんな人間の筈はない」とか思う事態を避けるには、様々な儀式の重要性を見直した上で、「いただきます」や「ごちそうさまでした」のような小さなことから大切にしていく必要があるだろう。
では、現代の我々がソクラテスの立場に立ったならば、祈祷や瞑想によって精神を整えて毒杯を仰ぐべきなのだろうか。僕の答えは「否」である。恐らく、まさにソクラテス(そしてキリスト)の事例などが引き合いに出されて、裁判制度は時代と共に進化してきた。ソクラテスが今日の被告人のように控訴できれば、そもそも毒杯の刑に処されることもなかったかも知れない。少なくとも現代社会において、ソクラテスのような人が極刑に処されることはまずあり得ない。
とにかく、コロナ・パンデミックで万人の生活が一変した今、道徳であると倫理であるとかについてじっくり検討し、ライフスタイルを再構築してみるのも良いかも知れない。
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