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二、ポストモダンからポストコロナへ



「もしも自分がポストコロナ社会を論ずるなら、どう展開するだろうか?」


 そんなことを、多様なポストコロナ論をみかけ、ふと考えた。

 瞬間的に思い当たったのは、「ポストコロナは、いわゆるポストモダンの幕を閉じるかも知れない」ということだった。そこで今回は、この問題について考えてみたい。


 しばしば耳にするポストモダニズム、それからモダニズムとは何だろうか。事典類を参考にしてみると、その理解や定義はまさに十人十色で、はっきりとしない。ただ、パリ第8大学哲学名誉教授ジャン=フランソワ・リオタール(1924 ~ 1998)『ポストモダンの条件』(水声社、小林康夫訳)は、学界におけるポストモダニズム論の金字塔と考えてよさそうだ。


 また、75万部を売り上げた文学の入門書を執筆したことで知られるランカスター大学英文学特別栄誉教授のテリー・イーグルトン(1943~ )が著した『アフター・セオリー』 (筑摩書房、小林章夫訳……二冊とも同じ訳者だ)は非常に参考になるので、この辺を考察の土台にしよう。


 イーグルトンは、モダニズムとポストモダニズムをはっきりと分けている。彼によると、モダニズムとは、フリードリヒ・ニーチェ(1844 ~ 1900)の説いた「神の死」に象徴されるように、「神」や「自然」そして「理性」さえからも、人間が解放されていくプロセスであった。19世紀後半から20世紀前半、人々は外から自分たちを束縛するような力から自由になっていき、解放感に浸っていくのであった。


 と同時に、喪失感をも感じて、自分と他者との繋がりを保ってくれるものを求めた。この一見矛盾した希望を叶えてくれるのが、いわゆる「流行」だった。確かに誰かが「モダンな~」というと、大体は「今流行っている~」という意味を表すだろう。


 一方、ポストモダニズムは、モダニズムによる解放の後に生まれた世代のパラダイムだ。彼らはその親世代と違い、人間が何かに繋ぎとめられる必要があるとは初めから思っておらず、個人はその希望どおりに生きればいいと考える。「流行にとらわれるなんて格好悪い」というわけだ(このへんは『アフター・セオリー』の3章とか4章とかに詳しく書いてある)。こういうイーグルトンの描写は、近代以降の個人主義とか自由主義が社会に浸透していく様をよく捉えていると思う。

 モダニズムはニーチェあたりで始まったとして、ポストモダニティはいつ頃始まったのか?この点についてはっきり語っているのはリオタールの方で、地域ごとに差があるとしても、おおよそ1950年代後半、ヨーロッパの戦後復興が済んで、社会が工業化を経て次の脱工業化社会へ移行し始めた時期だとしている。彼が注目したポスト工業社会の特徴は、「あらゆる最先端の知が言語に支えられていた」ということだ。音韻論を含む言語学は勿論、コミュニケーション論人工頭脳学現代代数学情報科学計算機科学プログラミング論、その他データの集積や情報通信に関する理論などがその例として挙げられている。


 また、ポストモダニズムを牽引するのは、莫大な富を背景にして国家を凌ぐに至った多国籍企業であり、彼らが学術の主な資金提供者となったため、研究や教育の価値が彼らのビジネスににいかに役立つかを基準として評価されるようになったとリオタールは指摘している(このあたりについては、『ポストモダンの条件』の1章、11章、12章に書かれている)。流行に必ずしも囚われない新しい世代をターゲットにしたビジネスで成功したものが出世する世の中になった以上、当然だったのかも知れない。


 要するに、「モダンな人」たちは「流行」でお互いに繋がり、イーグルトンいわく、それは“modern-ism”という名の示すとおり「新しいもの好き」という形となって現れる。しかし、ポストモダニズムはそれさえも超えた「何でもアリ」の世界であって、そこに住む人々は「モダン」を楽しむと同時に「レトロ」を味わう。僕からすると、自分の祖父母世代と親世代を比較した場合、こういう図式はかなりはっきり見られると思う。


 ポストモダニズムは、モダニズムに取って代わったのではなく、モダニズムに重なるようにして始まったと考えていい訳だ。新しいものであろうが古いものであろうが、本人が好きならばそれを追求すればよいという常識のもとで、人々が自分の嗜好に従ってひたすら愉快さや快適さを追求する社会が1960年頃に現れた、という話だが、僕はこの理論は現実を上手く説明できていると思う。この1世紀余り、世の中の大きな傾向というものは、間違いなくこのように変遷してきただろう。


 リオタールは、主に大学や他の研究機関におけるポストモダニズムに焦点を当てて議論をしたけれど、これに対して芸術であるとか、文化に関して語った有名な論客がフレデリック・ジェイムソンだ。彼が1991年に著したPostmodernism; or, The Cultural Logic of Late Capitalismの翻訳は不思議と出ていないが、ポストモダニズム論においてはリオタール『ポストモダンの条件』と双璧をなす名著だ。ここでは詳論をしない(というか僕自身がこの本を読んでいて、正直あまりにつまらなくて途中で辞めてしまったからよくわからない。超有名なこの本が翻訳されないのは、他のみんなもつまらないと思っているからなんじゃないか……)が、ジェイムソンはポストモダニズムを資本主義社会が招いた堕落のようにネガティブに捉えていて、批判的な議論を行っている。  そして比較的最近の2012年、ジェフェリー・ニールソンという学者が、Post-Postmodernism; or, The Cultural Logic of Just-in-Time Capitalismという本を出した。こちらも翻訳がない(そして全体としては、読んでいてやっぱりつまらない、と僕は思った)が、ジェイムソンの著書に似せたタイトルを持つこの本でニールソンは、ジェイムソンがポストモダンを語った冷戦時代が終わってから、資本主義の独走によってポストモダニズムの傾向は益々強まり、現在は「ポスト・ポストモダン」社会だと主張している。何だか月並みな感が否めなくもないが、ここで、ニールソンはとても重要な指摘をしている。

 先ほど触れたとおり、リオタールはポストモダニズムと言語の密接な関係に注目したが、ニールソンは、21世紀に入ってから言語が「社会を理解するための基礎的手法」という地位を追われているという。彼は、1)人類の社会的、生物学的、歴史的側面などのすべてが記号を用いたモデルで上手く表現できるとは限らないとわかってきたこと、2)そもそもグローバル化や情報化によって常に変化が加速する社会が、理解はおろか解釈することさえ困難になってきていること、などを指摘している(著書の第7章で)。


 この指摘がいかに重要な示唆を持っているかを、元英国外交官でありイラク戦争時に国連の大量破壊兵器対策チームで4年勤務したカーン・クロスが、著書The Leaderless Revolution: How Ordinary People Will Take Power and Change Politics in the 21st Century、(翻訳なし)で、自身の体験を交えて鮮明に描いている。いわく、金融、テロ、環境、感染症(!)などに関する今世紀の諸問題はあまりに複雑なため、政府・メディア・学界などで通用している「単純化」(モデル化)によって問題を把握し解決しようとするトップダウンのパラダイムはもはや機能しないので、個々の一般市民が主体的に社会問題の解決を目指して行動する必要があると説いている(この論点が序章で明確に示されていて、読んでいてとても面白い)。


 ここで話の本筋に戻るが、僕は今回のパンデミックを、クロスによる「『単純化』(モデル化)によって問題を把握し解決しようとするトップダウンのパラダイムはもはや機能しないので、個々の一般市民が主体的に社会問題の解決を目指して行動する必要がある」という洞察が人々により共有され、行動に反映されるようになるきっかけと捉えている。


 これまでも確かに、金融、テロ、環境において、9.11.、リーマンショック、3.11.などの危機を目撃してきた。ただ、こうした危機の被害は凄まじかったものの、直接的な影響は地理的に限られていた。今回のコロナ騒動も、エピデミックにとどまっていれば、そうであったろう。数年間人々の記憶にとどまりはしたであろうが、「ポストコロナ」という時代区分を生みはしなかったはずだ。


 しかしパンデミックが生じ、世界中の経済活動が停止された以上、多くの国においてほとんど全ての人間が何かしらの影響を受けており、全世界の人間が共通の問題を抱えている状況が生まれた。そして現に、各地の指導者たちは、法的な処置を施しながらも、住民たちに各自、自らの行動についてよく考え、慎むことを求めている。


 特に日本の場合はそうだろう。「不要不急」の外出を「自粛」するというのは、まさにクロスが述べたように「個々の一般市民が主体的に社会問題の解決を目指して行動する」ことに他ならない。


 というわけで、僕はポストコロナ社会というものは、市民の責任というものが様々な分野で再確認される世の中になると考えている。


 これまで、どちらかというと「市民には一定の権利があり、これを守るのが政府の果たすべき責任である」という社会観が常識であったと思う。特に、マスメディアにおける政治批判は、すべからくこうした前提の下に展開されてきたと言えるだろう。

 無論、これからも政府が市民の権利を守る責任を負い続けることに変わりはない。ただし、政府がその責任を果たすためには、市民の行動がこれに矛盾しない必要がある。この事実を、今回の「自粛」に関する「要請」が雄弁に物語っているのである。


 「俺は俺、私は私。政府やメディアが何と言おうと、パチンコに行きたければ行くし、観光地で遊びたければ遊ぶ。問題の解決は政治家や役人が頑張ればいい」という、ポストモダンな生き方の限界を露呈させた新型コロナウィルス。僕らを絶滅へと追いやる悪魔か、それとも人類を更なる進化へと導く試練か。決めるのは僕ら自身だろう。


 ……書き続けるときりがないのでこの辺でパソコンを閉じますが、これが僕の考えるポストコロナ社会です。


 皆さんはどうお考えですか?


 感想などあれば、下のコメント欄に是非記してみて下さい。


 それでは、次回の記事でまた!

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